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No.16859 名無しさん - 日航機墜落:事故30年 父の219文字、抱きしめ/あなた思い、生きてきた - 毎日新聞

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日航機墜落:事故30年 父の219文字、抱きしめ/あなた思い、生きてきた - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20150812/ddm/010/040/008000c

父の219文字、抱きしめ 手帳に「遺書」河口博次さん
 日航ジャンボ機が墜落するまで32分間迷走する中、「219文字の遺書」を書いた人がいる。神奈川県藤沢市の会社員、河口博次さん(当時52歳)。多くの乗客が家族へのメッセージを残そうとしたとみられるが、日航機は炎上しており、その数は少ない。遺書は子供たちへの呼びかけで始まる。見つかった経緯や込められた思い、30年をどのように過ごしてきたか、博次さんの家族に聞いた。

追う背中はまだ遠く 長男・津慶さん
 長男の津慶(つよし)さん(51)にとって、父は「口うるさい存在」だった。事故当時、大学4年生。月2回程度、単身赴任先の兵庫県から戻ると「ごろごろしないで勉強でもしたらどうだ」「家の手伝いでもしなさい」と注意された。無視すると「なぜ返事しないんだ」と怒られた。そんな父に悪態をつく自分がいた。

 津慶さんは事故翌日の8月13日朝、遺体の安置所が設けられた群馬県藤岡市に向かった。警察から身元確認の呼び出しがあったのは17日夕。遺体が安置されている体育館は腐乱臭がした。「これが遺品です。お父さんのものですか」と聞かれ、「間違いありません」と答えた。ハンカチ、名刺入れなどと一緒に、黒革の手帳(縦約12センチ、幅約8センチ)があった。父の遺体はぬれていたようだが、スーツの内ポケットにあった手帳は無傷だった。

 めくると、判読しにくい文字が目に飛び込んだ。「もしかして遺書では」。そう指摘したのは一緒に来ていた父の会社の人だった。子供への呼びかけで始まり、7ページにわたって書かれていた。

 <今5分たった もう飛行機には乗りたくない>

 日航機が「ドーン」という音に続いて、ダッチロールと呼ばれる迷走を始めたのは午後6時24分ごろ。津慶さんには、この一文が最も衝撃的だった。

 父はどんなことにも備える「用意周到な人」。車を運転する時は故障に備えて対応グッズをトランクに積み込むなど、リスク対策を怠らない。しかし、飛行機に乗ると自分の運命をコントロールできない。「自分の予想と違う結果になった時の父の口癖は『おれとしたことが……』でした。飛行機に乗るという判断をしたことを、遺書では悔いていたのです」

 津慶さんは現在、東京都文京区で妻(51)、長女(15)、次女(11)と4人暮らし。2年半前、大学卒業以来勤めていたガラスメーカーを辞めた。単身赴任生活が長くなりそうで、サラリーマンとしての将来もある程度見えてきた。そして、日本の工芸品を世界に販売する会社を設立した。元々、漆器などの生活器が好きで、起業にあたっては「家族との時も大切にしながら、70歳まで仕事をする自分をイメージした」という。

 この決断をする時、単身赴任先に家族を呼び寄せようと提案した父のことを考えた。津慶さんは当時、「学校があるから」と相手にしなかった。「孝行したい時に親はいない」。事故から30年たって変わらない、津慶さんの「悔い」という。

 <津慶しっかり たんだぞ(頼んだぞ)>

 遺書で初めて、自分に対する思いを知った津慶さん。「父は『最後まで家族を守る』というメッセージを込めた」。その重みを今、かみしめている。

人生、導いてくれた 長女・真理子さん
 長女の真理子さん(54)は事故当時、大学院修士課程2年で環境経済学を専攻していた。「『環境』を勉強しても食べていけないよ」。指導教授にそう言われた時代だった。

 父を失った8月12日は、就職活動で企業訪問していた。採用担当者に「女性はよほど能力がないと採用しない」と言われ、落ち込んだ。帰路の電車で、きれいな夕焼けを見て思った。「パパに相談しようかな」。帰ってテレビを見ると、搭乗者名簿に名前があり、目の前が真っ白になった。

 <パパは本当に残念だ きっと助かるまい>

 遺書は強い筆圧で書かれ、文字はページの裏側にめりこんでいた。死を覚悟した父を思い浮かべた。「魂がこもっている」と感じた。

 事故の翌年、真理子さんは大和証券に入社し、シンクタンクの大和総研へ。1997年に論文「環境経営の時代」を書いた。CSR(企業の社会的責任)を専門とし、この分野の「先駆者」「第一人者」と呼ばれるようになった。家庭を持ち、14歳の息子の母となった。

 今年は父が勤めていた商船三井(本社・東京)から「当社の安全への取り組みを評価してほしい」と依頼された。事故から30年。真理子さんは「ご縁を感じる」と引き受けた。

 7月8日、真理子さんは商船三井本社で幹部ら約30人を前に講演した。テーマは「『安全』を競争力の核に」。日航機事故と重なるテーマだ。

 「明治維新以降、海運業がいかに日本をつくってきたか、父に小さいころから聞かされてきた」「海賊やテロ、異常気象などのリスクが高まっている中で、『海の安全』は当たり前のことではなく、投資して作っていく最大の企業価値になっている」。大きな拍手が会場を包んだ。父が導いてくれた、と思った。

いつも夫がそばにいる 妻・慶子さん
 博次さんの妻の慶子さん(81)は築41年の我が家で、次女の知代子さん(47)と暮らしている。遺影を前に、遺書に込められた夫の思いを語った。

 1ページ目で子供たちに「ママをたすけて下さい」と呼び掛けているのは、事故の数年前、慶子さんが病気を患ったことが背景にあるという。

 「病気をしたことで、どちらがいつ欠けるか分からないことに気付きました」

 博次さんと慶子さんは、大学で語学のクラスが一緒だった。博次さんの就職先が大阪商船三井船舶(現・商船三井)に決まった大学4年の時にプロポーズされた。

 他の女友達とも一緒にグループで山登りに出かけることはあっても、結婚相手と思ったことはなかった。断った翌日に届いた長文の手紙を読み、結婚を決めた。「地味なタイプでしたが誠実そうで、一生、『アイ・ラブ・ユー』と言ってくれると思った」

 そして、3人の子供に恵まれた。事故前日の夜は家族5人で、手巻きずしを食べた。当日の朝は、最寄り駅まで夫を見送った。「じゃあね」と声をかけて別れたのが最後だった。

 <ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ>

 5年ぐらいは、つらくて泣いてばかりいたが、今は、いつも夫がそばにいると感じている。

 「30年はあっという間でした。もうすぐ主人のところに行けるので、涙は出ません。私が多くの人に伝えたいのは『いつ何が起こるか分からない』ということ。大切な人に普段から自分の思いを語ってほしい」

河口博次さんの手帳に書かれていた遺書(全文)

マリコ


津慶


知代子


どうか仲良く

がんばって

ママをたす

けて下さい

パパは本当

に残念だ

きっと助かる

まい

原因は分らない

今5分たった

もう飛行機

には乗りたく

ない

どうか神様

たすけて下さい

きのうみんなと

食事したのは

最后とは

何か機内で

爆発したよう

な形で

煙が出て

降下しだした

どこえどうなる

のか

津慶しっかり

たんだぞ

ママ こんな事

になるとは残念だ

さようなら

子供達の事

をよろしく

たのむ

今6時半だ

飛行機は

まわりながら

急速に降下中



本当に今迄

は幸せな

人生だった

と感謝して

いる

あなた思い、生きてきた
 日航ジャンボ機墜落事故で、残された家族は悲しみを抱えながら懸命に生きてきた。これまでの30年を振り返ってもらった。

もう同い年になったよ 父が犠牲、兵庫・小澤秀明さん

灯籠を作る小澤紀美さん(右)と長男の秀明さん=群馬県藤岡市で
 事故翌年の1月28日に生まれた兵庫県明石市の会社員、小澤秀明さん(29)は今年、犠牲になった父、孝之さんの年齢に並んだ。大阪府豊中市の実家で母紀美(きみ)さん(59)と誕生日を祝った。「お、ようやく追い付いたな」と語りかける父の声が聞こえた気がした。

 孝之さんは出張帰りの飛行機で事故に遭った。当時、東京と大阪を頻繁に行き来していた。半年後に我が子を抱けるのを楽しみにしていた。秀明さんは大手タイヤメーカーに就職。出張で全国を飛び回る。「父は人生道半ばだったと改めて思います」

 犠牲者の家族は、8月12日の前夜に灯籠(とうろう)流しをする。秀明さんは今年初めて灯籠作りに参加し、和紙に「空から見守っていて下さい」と書いた。

 事故後、毎日泣いてばかりの紀美さんの生活は秀明さんの誕生で変わった。「喜んだり怒ったり、この子にいろいろな感情をもらった」。秀明さんは「いつか僕が母をおぶって、御巣鷹の尾根に登る日が来るのかな。それが母への恩返しだと思う」と語った。

今も終わらない悲しみ 日航職員の長女犠牲、埼玉・原忠臣さん

アルバムを見ながらまり子さんとの思い出を語る原忠臣さん=埼玉県入間市で
 「30年たっても苦しみは変わることなく、今も思い出して涙が出る」。長女で日航職員の白井まり子さん(当時26歳)を亡くした父、原忠臣(ただおみ)さん(85)=埼玉県入間市=は深い悲しみに沈んだままだ。つえをつかなければ歩けず、体調不良の妻を介護する日々。「まり子さえ生きていてくれたら」と思わない日はない。

 原さんはまり子さんの生きた証しを残そうと、1985年12月から成長の過程や思い出を書き始めた。2012年1月に「まり子の想い出」(A4用紙100ページ)が完成。まり子さんが結婚して幸せに暮らしていること、里帰りしたまり子さんとカラオケをしたこと……。そして埼玉の実家から自宅のある大阪に向かう途中で事故に遭った。

 <死にたくない>

 遺品の白いポシェット内にあった運航表には、まり子さんの機中での思いが書き込まれていた。「私たち家族に、最後の叫びを伝えようとした」と原さん。12日には追悼慰霊式に参列し、翌13日に御巣鷹の尾根へ向かう。

「生徒」見つけてあげて 次男と長女犠牲、神奈川・小田淑子さん

小田淑子さん。遺影は次男浩二さん(右)と長女陽子さん=神奈川県鎌倉市で
 神奈川県鎌倉市の小田淑子さん(74)は日航機事故で、高校1年の次男浩二さん(当時15歳)、中学1年の長女陽子さん(同12歳)を失った。同乗していた妹(同38歳)とその子供2人も犠牲になった。

 妹一家は奈良県から遊びに来ており、淑子さんの実家も妹の家の近くにある。陽子さんが「飛行機に乗りたい」とせがんだため、妹に託して2人を送り出し、自分も追いかけようと思っていた。「願いを聞き入れなければよかった」。悔やまない日はない。

 今年3月、陽子さんの同級生が交通事故で長女(8)を失った。同級生の母は「陽子さんに手紙を渡してほしい」。<幼いので冥土への道もしらず、まごまごしてないでしょうか。もしみつけたら、手をとってつれていってください。泣いていたらなぐさめてください。お願いいたします>

 淑子さんは12日、御巣鷹の尾根に登り、手紙を墓標に届ける。陽子さんの夢は小学校の先生になること。「天国で先生になっているよね。必ず見つけてあげてね」

ヒメリンゴよ見守って 次男が犠牲、広島・増田千代さん

御巣鷹の尾根を訪れるのを今年で最後にするという増田千代さん=広島県呉市で
 会社員だった次男勇生(いさお)さん(当時26歳)を失った広島県呉市の増田千代さん(88)が、御巣鷹の尾根の登山口に行くのは今年が最後になる。13日に長男(60)と訪れ、「もう来てあげることができなくて、ごめんね。ばあちゃんももう少しで、いーちゃんのもとへ行くから」と別れを告げる。

 登山口から墓標が立つ尾根まで、健康な人は徒歩20分程度。2年前は墓標までたどり着けたが、昨年は車で行ける登山口までだった。高齢の千代さんには厳しい道のりだ。

 勇生さんは出張先の北海道から実家の呉に戻るため、事故機に乗り合わせた。出張の度に自分の荷物よりたくさんの土産を買ってきてくれた。

 事故の数年後、誰かが勇生さんの墓標脇にヒメリンゴの木を植えてくれた。当初は30センチ程度の苗木だったが、今は千代さんの身長より高く成長し、墓標は夏の日差しにさらされなくなった。ヒメリンゴの実がなった姿は見たことがない。「たまには実をつけてあげてね。そして、いーちゃんのことをずっと見守ってね」

最後のゴルフどうだった 父が犠牲、神奈川・若本千穂さん

父昭司さんが事故当時に持っていたハンカチと名刺入れを手にする若本千穂さん=東京都台東区で
 神奈川県大和市の若本千穂さん(50)は12日の慰霊登山で、会社員だった父昭司さん(当時50歳)に一人息子の崚(りょう)さん(23)が今春就職したことを報告する。毎年、一緒に登っていた崚さんはこの日、仕事があるため、1人で御巣鷹の尾根に登る。

 今年1月、自宅の衣装ケースを片付けていると、父がゴルフの時に着ていた紺色のセーターが出てきた。「あっ、お父さんのだ」。懐かしさがこみ上げ、頬ずりした。父は出張先から大阪府豊中市の自宅に戻るため日航機に搭乗した。事故の数日後、大阪の自宅にゴルフバッグが届いた。羽田空港をたつ前に送ったものだった。父は、日曜になると趣味と接待を兼ねてゴルフに行っていた。「最後のゴルフは楽しめたのかな」。悲しみがこみ上げた。

 崚さんとは小学生の時から慰霊登山をし、遺品などが展示されている東京・羽田の日航安全啓発センターにも毎年連れていった。「崚はしっかり社会人しているからね」。今年は父にそう伝える。

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